故郷を原発事故で汚染され
怒りあらたに政治革新!
私は、福島県郡山市の生まれです。今、妹夫婦と母が暮らしています。
郡山市は高校卒業までくらし、思い出がいっぱい詰まった自然豊かな故郷です。
今、その故郷が放射能汚染に苦悩しています。磐梯山も猪苗代湖、また、安達太良山もです。
妹は「あまり外に出ないようにくらしている」と言っています。
夫に先立たれ女手ひとつで5人の子育てに苦労してきた年老いた母を思うと、私の胸は怒りでいっぱいです。
社会に出て戦争の悲惨さを知る
私は、1941年(昭和16年)の太平洋戦争勃発の年の生まれです。
郡山市は東北の交通の拠点で、郡山航空隊や落下傘工場などがあったため、激しい米軍の爆撃が行われました。一家は父と祖母を残してさらに奥に疎開しました。隣が牛小屋だったことをおぼえています。
私の戦争の記憶はこの程度でした。
私が戦争の悲惨さと平和の尊さを知ったのは、就職し組合活動を通してでした。
当時は「60年安保」の真っただ中でした。
組合は、労働者の権利だけではなく、大企業の圧力から中小企業を守る立場と政党支持の自由も保障された民主的な組合でした。
この時に広島、長崎の悲惨さも知ったのです。
戦争への反省は本物だったのか!
ところが、50年ごろから原爆の悲劇をよそに、米国から原発を持ち込む準備はすすめられていたのです。政府と財界はマスコミを巧みに使って「安全神話」を国民に振りまきました。
日本の戦争に対する反省が問われますし、米国と日本の財界のいいなりの政治が問われています。
放射能から子どもを守る政治革新を!
そして、今回の事故です。原発撤退と、放射能汚染から子どもたちを守る闘いは急務です。そのための政治革新は待ったなしです。
私は、あらためて、故郷を汚染した原発事故に怒りつつ政治革新に向けた決意を新たにしています。
議員活動はいつも自転車で
相談ごとにはすぐ駆けつけます!
はじめは、自転車にスピーカーをつけ、旗を立てて街頭宣伝に出るのには少し勇気がいりました。しかし、意を決してこのスタイルになって25年あまりが過ぎました。
学校帰りの小学生が追いかけてきます。通りすがりのおばさんが手を振ってくれます。こんな時には元気をもらえるのです。
これが私の議員活動スタイルとして定着しました。
今は、厳しくむずかしい時代です。相談ごとは様々で複雑です。
相談があると「さあ、どんな相談だろう。解決できるかな」といまだにドキドキしながら自転車で駆け付けます。
解決すると、その達成感はひとしおです。特に、風を切ってかえって来るときは、自転車ならではの気持ち良さがあるのです。
「正義と行動力で全力投球」が私のキャッチフレーズですが、小回りがきく自転車にはぴったりだと思っています。
これからもこのスタイルは続けます。
途中で見かけたら激励の声をかけてください。
これからも全力をつくします。
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