18年12月30日
「日本共産党坂戸市わかば後援会」主催のバス旅「無言館と古寺巡り」で11月16日(金曜日)、晴れ渡った晩秋の長野県上田市へ。(写真をクリックすると大きくなります)
「無言館」は戦没画学生の絵画を守るため照明を落とし、一層鎮魂の雰囲気。
歌人の金子兜太氏が晩年に呼びかけ、無言館館主の窪島誠一郎氏らの協力で2月に開館した「檻(おり)の俳句館」。
弾圧され獄中だった俳人の句は、檻を模した格子の中に。
古寺の近くには「山本宣治記念碑」。治安維持法改悪に一人命がけで闘った往時を偲ばせます。
古寺本堂は、いずれも荘重な茅葺き。常楽寺では宝冠をかぶる珍しい阿弥陀如来に、安楽寺では国内で唯一現存する八角形の三重塔(国宝)に魅せられました。塔の裳階(もこし)は軽やかに舞うスカートのよう。主催者側の名ガイド付きでお得な旅でした。
千代田 吉田美津枝
日本共産党坂戸市「わかば後援会(千代田・関間)」主催のバス旅「無言館と古寺巡り」に、私たち「すみよし後援会」からも5人が参加し、紅葉真っ最中の長野県上田の秋を楽しみました。
先ず、戦没画学生の絵を集めた「無言館」を鑑賞。館主の窪島誠一郎さんが語ったように実際「しょぼい絵」が多い。しかし、そうじゃない絵も数点ある。伊澤洋(ニューギニアで戦死、26歳)の油絵『家族』や、特に太田章(旧満州で戦病死、23歳)の日本画『和子の像』は、力量と才能が十分感じ取れ、将来を嘱望されるレベルの絵です。
だが、「しょぼい」かどうかは実は問題ではない。窪島氏(無言館館主)が語るように、戦争に行かされた若者の「絶望」と、その絶望の中でどうしても絵を描きたいという「希望」がせめぎあっている。そこから生まれた絵であるということに、彼らの絵の値打ちがあります。無言館が戦没画学生の慰霊美術館と称してよい理由です。
無言館を下りていくと、前にはなかった「檻(おり)の俳句館」がありました。反戦の俳句を詠んだとして治安維持法により検挙・投獄された17人の俳人の句を“檻の中に入れて”展示する俳句館で、今年開館したとのこと。
檻の俳句館の傍らには、「平和俳句」に注力した金子兜太(とうた)さんが呼びかけ人となり建立された「俳句弾圧不忘の碑」が立っていました。
碑には、渡辺白泉の「戦争が廊下の奥に立っていた」の句をはじめ、17人の俳句が全て刻まれています。
午後は、825年建立の常楽寺などの古寺を訪ね、最後に、「山本宣治の碑」を見ました。山本宣治は、当時非合法の日本共産党から非公式ながら推薦を受け、1928年の第1回衆議院普通選挙に京都から当選しました。翌年の1929年、最高刑を死刑へと改悪する治安維持法に反対して暗殺されてしまいます。死後、共産党員に加えられました。
この碑は、暗殺の4日前、上田で記念演説した縁で、翌年の1930年に、同じく農民・社会運動家であった高倉輝(戦後共産党から衆議院議員、のち参議院議員)が、上田の借家内に建立したものです。のち、高倉は治安維持法で逮捕・投獄され、碑も破却を命じられましたが、家主が庭に埋めて碑を守り、戦後になって掘り出されました。
昭和の時代は「戦争の時代」と言われ、「テロリズム、暗殺の時代」とも言われます。1921年(大正10年)の原敬首相暗殺に続いて起きたのが、1929年(昭和4年)の山本宣治暗殺事件でした。その後も、1936年の高橋是清蔵相などが暗殺された2.26事件に至るまで、テロは続きます。これらテロはすべて、反戦の重要人物が殺されたのでした。1931年の満州事変からの、いわゆる「15年戦争」へ国民を駆り立てていく道がこうして作られたのは、ご承知のとおりです。
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