戦争の記憶

日本共産党坂戸市議団 新さかど

17年10月4日

 終戦から72年。1943年(昭和18年)の学徒出陣で応召された学生が見た戦争の現実は…。田中一郎さんから貴重な手記が寄せられました。時の政権が9条改憲を狙う情勢のなか、戦争を知るよすがになることを期待して掲載します。

戦争の記憶

泉町 田中一郎

 今の私は94歳。台湾の高校を卒業し東京帝国大学(現東京大学)に入学したのが1943年(昭和18年)9月1日、私が21歳の時だった。

 安田講堂の入り口で係員が入場者に小さな紙片を渡している。その紙には、教育勅語の一節「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」が記されてあった。講堂内に入ると、法文経理工農医の新入生600人が席に着き、壇上には内田総長以下各学部長が着席、一段上の席に東條首相と岡部文相が臨席されていた。

 9月29日、本郷区役所で徴兵検査。心臓肥大で丙種合格、10月21日に神宮競技場で出陣学徒壮行会。そして12月1日、千葉県柏の東部五部隊に入営した。1944年(昭和19年)1月中旬、幹部候補生の試験があり、斉藤(明大)、山根(千葉大)と私の3人が沼津の野戦重砲隊に回された。

 それからの1年は、沼津、豊橋、大阪の羽曳野、そして最後が九州の久留米と移動して訓練を積み、1945年(昭和20年)1月6日、任地チモール島を目指して門司港を出た。昼も夜も敵の潜水艦に追いまくられて青島沖に停泊して3日ほど休養、その後駆潜艇に誘導されて台湾海峡に入るが、13日早朝右舷に2発の魚雷を受けて沈没、着の身着のまま海軍の駆潜艇に拾われた。豪州への便船がないため地元の高射砲隊に編入され台南番子田の陣地に配属された。

 2月25日、アメリカの哨戒機1機を迎撃するが、高度が足りず、敵に味方の陣地を知らせる結果となり、翌朝戦爆(戦闘機と爆撃機)連合の編隊が来襲、陣地どころか防空壕まで爆撃する始末、しかし私は、それから先は知らない、気が付いたのは3月1日、台南の衛戍(陸軍)病院だった。

 それから4ヵ月、爆風で失った上下の歯の治療と心筋梗塞の治療にあけくれた。

 1945年(昭和20年)7月2日、衛戍病院を出て竹東の原隊に戻った。海岸線の防衛陣地で遠浅の海に20メートル幅の溝を掘り、敵の戦車や上陸用舟艇の接岸を防ぐのが目的だった。朝8時の点呼後、朝食を済ませて溝掘りにかかったが、掘り始めて1週間、完全に近い土器が出てきた。近くの新竹航空隊に京都帝国大(現京都大)出の小林少佐がいらっしゃるとのことで、その土器を持参した。

 小林さんは、一見してすぐ「これはシルクロードを通ってきた土器で日本では沖縄と九州の一部で発見されるものです」と説明して下さった。隊に戻った私が小林さんの話を伝えると、興味を持った兵隊たちは、朝起きると掘りはじめ、沢山の石器や土器を採集し、肝心の戦車壕はそっちのけ。

 8月10日、広島に原子爆弾が落ち、20万人近い死者が出たとのニュースがあった。そして15日、連隊本部に行った伝令が、「終戦です、日本が負けました」と報告した途端、部隊長が「馬鹿もん、日本が負ける筈はなか、もう一度聞きなおしてこい」と別の伝令を出した。

 「負けました、間違いなく敗戦です」。帰ってきた伝令が伝えると、部隊長は「陛下のお言葉を聞き間違えた、申しわけなか」と言って自室に入り、短剣で腹を刺し切腹された。しかし、腹に刺した刀を引き切れず、腹膜炎を起こして1週間苦しんで他界された。みな辛い記憶である。

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