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3・1ビキニデー集会に参加して

06/03/26

高橋宣子

 2月28日〜3月1日、静岡で開かれたビキニデー集会に埼玉原水協の人たち(埼玉参加者は65人)と参加しました。参加するきっかけとなったのは、2年前広島での原水爆禁止世界大会の参加、その後、母親大会・平和の分科会参加で、原水禁の運動が始まったのは、ビキニデーからと知ったことでした。

ようこそ静岡へビキニデー集会の写真

 原水協全国集会全体集会では、原水爆禁止世界大会や秋の国連総会に向け、新たな国際署名「すみやかな核兵器廃絶のために」を大きく広げようと呼びかけられました。

 分科会は「被爆とビキニ被災の実相を全国に、世界に」に参加しました。

 パネリストの高橋博子さんはアメリカがビキニ被災もみ消しと汚染マグロ調査打ち切りのため圧力をかけた事実(1955年、200万ドルという見舞金を早速日本政府に渡して、その年の内に政治決着を結び、事件に蓋をしてしまいました)を、公開された米公文書をもとに発言されました。時間が足りないのは残念でした。

横断幕を掲げている写真

 大石又七さん(元第五福竜丸乗組員)や初めて参加した桑野浩さん(高知県「第二幸成丸」の元乗組員)からは、水爆事件当時の様子が生々しく話され、実験のことは知らされていなくて、知識も全くなかった。港につくとまず船体検査、マグロを丁寧に調べたが自分たちは検査されなかったと報告されました。

報告している写真 被害者のほとんどが補償を受けられず、2万人に上る乗組員たちは政治決着した時点から被爆者ではなくなってしまったと話されました。政治決着をしたその年、日米原子力協定がワシントンで仮調印され、翌年には原子炉が東海村に送られてくることになり、日本の原子力発電はそこから始まったのです。

 被爆者の方たちからは、「私は人間です。一人の被爆者として認めて欲しい。残りの人生をかけた最後のたたかいである」と、涙ながらに訴えられました。

 3月1日は、焼津駅前から弘徳院まで約1時間、バラの花を持ち、歌を歌いながら、献花墓参平和行進が行なわれました。弘徳院では故久保山愛吉氏墓前祭が行なわれており、私たちは墓前に献花してきました。午後からは3・1ビキニ集会に参加しました。

横断幕を掲げている写真

 集会2部ではチェルノブイリの歌姫・ナターシャ・グジーさんのバンドゥーラ(ウクライナ楽器)の演奏と歌を楽しみました。

 彼女は子どもの時チェルノブイリで被爆し、たいしたことないので3日間避難してくださいと言われ、何も持たずに避難した。3日経っても、1年経っても、そして20年経っても戻ることはなかった。

 美しい森も、家も壊され土の中に埋められ今は何も残っていない。生命が輝いた街が死の街になっている。重い病気で亡くなった人も沢山いる。子どもが大人になって、子どもを産み、赤ちゃんに異常がある人もいる。

 忘れられた悲劇がまたいつ訪れるかもしれない。平和のために、いつも 何度でも歌いますと綺麗な日本語で話され、「千と千尋の神隠し」を澄み切った声で歌ってくださいました。機会があればもう一度聴いてみたい素晴らしい歌声でした。

 多くの皆さんのカンパによりこの集会に参加させていただいたことを感謝いたします。ありがとうございました。

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